聖号十念
残暑厳しい折、皆様いかがお過ごしでしょうか。
冷房を消して夜をしのぐにも、集合住宅ではなんとも辛い日々が続いております。
秋彼岸会へのお返事を頂き、ありがとうございました。
私は本年後厄のためでしょうか、8月はすっかり暑さに負けてしまい、
風邪と一緒に身体の各所に炎症が訪れ、
喉から始まり腸、足の甲、歯茎、筋膜に至りあまり身動きが取れませんでした。
文字通りフィーバーです。首が自由に動くようになったとき、しみじみと健康のありがたみを感じました。
夜中に痛みからつい悲鳴をあげてしまい、周囲に迷惑をかけ忸怩たる心持になり、
今は亡き祖父母もこうした気持ちになったのだろうか、と思いました。
病の痛みやさみしさや、辛さをこらえて家族を気遣った祖父母世代の精神性に、
贅沢に慣れた自分は届くことができるのでしょうか。
さて、本年も、浄土宗城南組青年会の六時礼讃会へ出仕させて頂きました。
六時礼讃会というのは、皆様と過ごすいつものご法要より長い、1時間~1時間半の法要を、
4時間ごとに、6回お勤めする修行のひとつです。
今回は、昨年に引き続きこの修行についてお話をさせて頂きます。
私がこのご法要をお勤めするようになり、はや5年目となります。
普段皆様にお目にかけているご法要との違いは、
1、修行用の真っ黒の衣で
2、礼讃という、皆様聞き覚えのある節のついた歌のようなお経の、30分ほどの正式版を中心に
3、クーラーのない本堂で
4、普段余りお唱えしないお経も交えながら
5、五体投地という、立った状態から額が地面につく礼拝を24時間で200礼ほど修する
という点です。
現代人生活に慣れた私にはなかなか辛いものです。では、
お坊さんが勝手に集まって勝手に修行したところでお檀家さんや宗門外の方々に一体どんなご利益があるのか、
(利益という言い方は、公益法人がまるでアメリカの株主利益至上企業になったようで余り好きではないのですが)
釈尊すら易行中道を勧めた仏教で、何故厳しい(といっても他宗派にはもっと厳しい修行が多数ありますが)修行をするのか。
以下は拙僧の私見です。過ちがあればご指摘ください。
1、自分が凡夫であると思い知ることができる
普段、自分が少々何かができると思い上がっていても、肉体的に辛い状態にさらされると、
自分がどれだけもろく、情けなく、エゴイスティックな感情に支配されてしまうかを、身をもって知ることができます。
自分を守るためとはいえ、良くここまでサボるための言い訳が思いつくと感心してしまいます。
早く休憩したいから、なるべく滞りなく法要が進んで欲しい、と思うということは、
滞りを起こした人に怒りが沸いてしまうという罠でもあります。
自分のことばかり考えていては人を助けることはできない。
失敗した人(自分も失敗します)を助けるためには自分が助けられる程度の力を持たねばなりません。
2、一体感の大きさ
皆様がご覧になるご法要、ゴーンと鳴る鐘と、チーンと鳴る鐘と、ポクポク言う木魚と、カンカン鳴る金色のアレ。
あれらは、ただ飾りやアクセントで鳴らしているというわけではなく、
本来は僧侶が多数集まったときに、全員の発声を合わせるためのお知らせでもあります。
(音声学的には、木魚には人の緊張を和らげ、金属楽器には人の意識を引き締めるといった意味もあります)
最後に、人と一緒に合唱なさった経験はいつごろでしょうか。
私は、僧侶の経験を抜くと、100人単位では高校の卒業式、友達レベルでカラオケのデュエット、
10人単位では、従兄弟の結婚式の賛美歌、1万人単位ではバンドの東京ドームライブが最後です。
仰げば尊しって、別にうちの学校の先生なんか仰ぐほどでもなかったし、というご意見もありましょうが、
同じ志を持つ(と思われる)方と声を同じくするのは、理屈抜きで気持ちが良いです。
また、長時間合唱しているとき、自分の喉が枯れて声が出ないときが数秒間あっても、
その間を他の人が助けてくれることで長い礼讃ができる、というのも、集団の強みでもあります。
私は元来書痴で、一人で行動することが多く、集団行動の悪い面ばかりを盾にしてきましたが、
その場にいる人たちで心を合わせる、きっかけとして音というのは大きな機能を持つと思います。
卒業式で校歌とかだっさ。と思っている方もおられましょうが、ものはひとつ。課金ゲームと違ってタダですから。
是非、住職が「ご一緒に十念を」と申しました際は、ご一緒にご発声いただければ幸いです。
3、自分の成長が分かる
これは完全に私事で申し訳ありません。
塾や学校の定期試験から縁遠くなって久しく(すでに高校2年生の2倍の年齢。馬齢とはまさにこのことだ)、
長らく健康診断も定期的に受けられなくなっているここ10年ほどですか、
同じような条件で、同じようなメンバーと、自分の進捗を計ることができるのは貴重な機会です。
私は割りと図に乗りやすい安っぽさを持っていますので、
いい気にならないためにも先輩との比較ができるのはありがたいです。
人は、完全に他人との比較から逃れることはできないと思っていますので。
(点が2つないと自分の座標が測れないため)
以上を踏まえまして、思い出されるのは、加行(僧侶になるための最終修行です)の際に指導係の先生に頂いたお言葉です。
(語尾等不正確なのはお詫びします)
「あなたたちは、そうして座っていて、なんでこんなに足が痛いんだろうとか、
どうしてこんなしんどい修行をしなければいけないんだろうとか、思っているんでしょうが、
あなたたちがこうして痛い思いをして修行や勉強をすることができているのは、
あなたがいない家を維持してくれている家族、
あなたがいない不便を補ってくださっている縁のある方々、
あなたがいないお寺を守ってくれているお檀家の方々、
あなたがいない社会を維持してくれているあなたの知らない方々のおかげなのですよ。
感謝してよくよく勉強しなさい」
皆々様、拙僧に研鑽の機会と時間を下さり、ありがとうございました。
いずれの機会に何らかの形でお返しができればと思っております。
合掌


