阿弥陀様のお姿

みなさまこんにちは。副住職の石井綾月です。

大分暑い季節となって参りましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。近頃は荒天が続き、秋田の豪雨災害では災害救助法が適用されました。幸いお亡くなりになった方はおられませんでしたが、東京浄青では7月24日(月)に緊急街頭募金を行いました。おかげさまで、207,905円のご支援を賜りありがとうございます。お預かりいたしましたご浄財は、日赤の支援口座へお送りさせて頂きました。

さて、住職が入院して以来、私一人でお勤めをさせて頂いておりますので、ご本尊の阿弥陀様と相対しながらお経をお唱えすることが増えました。精一杯心を向けている時はいつも見守ってくださる阿弥陀様、しかし気が逸れている時などもご存じでいらっしゃる阿弥陀様ですので、毎回ありがたくも気を引き締めなければと思いつつお勤めをしておりますが、私の座る板の間より遠い、畳の椅子席にお座りの皆様からは、お姿が少し遠くて相好が良く見えない、という方もいらっしゃるのではないかと思います。

松光寺の阿弥陀様

松光寺の阿弥陀様

また、余談ではありますが、「どうして仏像は皆似たような外見なのでしょうか。もっと今風のイケメン仏像などは作られないのでしょうか」というご質問を頂くことがございます。

もし仏像がイケメン細マッチョだったらどうなるでしょうか。
確かに、「商品」としては高評価を頂き(つまり所有欲を刺激し)、仏具屋さんの売り上げは上がり、メディアに取り上げられ、仏像女子が増えると共に浄土宗に興味を持ってくださる方は一時的に増えるかもしれません。
その一方で、男性の一部からは不評でしょう。自分と比較してみじめな気持ちや怒りを抱く方もいるかもしれません。もし観音様が女性だったとして、グラビアアイドルさながらであれば、私はたぶん平静ではいられないと思います(笑)。実際に、浄土宗の美僧に権力者の側女が夢中になってしまい、怒った権力者に僧たちが殺されてしまうという事件もありました。

「美しい」ということは、一見良いことのように見えますが、人の欲や、嫉妬や、怒りをかき立てるという悪い面も必ずあります。また、「美しさ」とは時代によって移り変わるもので、流行りがあれば必ず廃れるものです。もはや流行りの外見ではなくなった仏像がたやすく打ち捨てられてしまうことも想像に難くありません。
阿弥陀様はそのことをよくご存じでいらっしゃいましたので、極楽浄土という国を造られる際、「無有好醜」という誓いを立てていらっしゃいます。
「もし私が仏と成る時、私の国の人たちの形や色が同じでなく、見好き者と酷き者とがあるなら、私は仏にはならぬ」というのがその内容です。
これは全員クローン人間のように同じ顔になる、という意味ではありません。見た目の良し悪しによって人が差別されるような悲しいことが起こらない、という意味です。
また、極楽浄土で今までの苦しみからすべて解放され、安らかな笑顔になられた結果、皆様のお顔立ちがなんとなく似てくる、という意味でもあります。

美しいものは儚いからこそ価値がある、だからお金を払う、というのが私たちの生きている世間のものさしです。
しかし、美しいか醜いかといったところにあなたの本当の価値はないことを私は分かっています、ですから、安心してお心を預けてください、というのが阿弥陀様のものさしなのです。

では、美醜を超えたところにおられる阿弥陀様はどんなお姿なのでしょうか。そのことについて書かれているのが、浄土宗で最も大切にされている経典の一つ、「観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)」というお経です。回忌法要や日常のお勤めなどで、この「観無量寿経」の一部「第九真身観文(だいくしんじんがんもん)」というお経をお唱えしております。
「観無量寿経」はお釈迦様が説かれた教えで、十六のステップを通じて極楽浄土の様子や阿弥陀様のお姿をイメージする方法が描かれており、第九真身観文は9番目にあたります。

それでは現代の視点から、お釈迦様の教えを拝見いたしましょう。
お釈迦様のおっしゃることには、阿弥陀様のお姿は、最も優れた黄金と同じ色であり、その身の大きさは「六十万那由佗恒河沙由旬」だそうです。「那由佗」は「10の60乗(10を60回掛け算した数)」で「恒河沙」は「10の52乗」、「由旬」は「約15km」です。
60万×10の60乗×10の52乗×15km=9(の後に0が119個)kmというとんでもない大きさです。
ちなみに、太陽の直径が1391,600km、太陽系が15兆km、銀河系の直径が100京kmですので、阿弥陀様は銀河系の9(の後に0が111個)個分ということになります。
現在人類が観測できている最も大きい星が太陽の1700倍で、大きさを比較している動画を拝見すると己の小ささに目眩がするほどです(※1)。
現代科学ではこれほど大きな質量のものが実際に存在するとは言い難いことですが、私たちの生きているこの世間でも、頼りがいのある人を「器が大きい」「大人物」などと表します。どんな時代でも揺るがない心の大きさをお持ちなのが阿弥陀様なのです。

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また、阿弥陀様の額の白毫(丸い点状の盛りあがったところ)は須弥山(※2)を5つ重ねたほどで、白目と黒目は海のようにくっきりと澄んで分かれ、毛穴の一つ一つから放たれる光明もまた須弥山のように大きく強いとあります。阿弥陀様の光の届く範囲は百億三千大千世界に及び、その中におわす他の仏様方の数もまた百万億那由佗恒河沙という数に及び、それぞれの仏様にはお供として菩薩様がついておられると言われています。私たちが住むこの世界を一須弥界と定義すると、一須弥界が千個集まって小千世界、小千世界が千個集まって中千世界、中千世界が千個集まって大千世界と呼び、小中大の三種が集まってできているので大千世界を三千大千世界とも呼びます。計算すると10億個分の世界ということになり、これもまた人知を超えたスケールの大きさです。
そしてまた、阿弥陀様には八万四千の勝れた大きな特徴(勝相)があり、一つ一つの特徴にまた八万四千の小さな特徴(随形好)があり、その小さな特徴の一つ一つにまた八万四千の光明が伴っていると言われています。この「八万四千」は実際に84.000個の美点があるという意味ではなく「数えきれない」という意味です。数えきれないほどの光明の一つ一つが、世界のどんなところでも届き、お念仏を唱える私たち衆生を一人も見捨てず救ってくださるのが阿弥陀様という仏様であると説かれているのです。

以上、搔い摘んだ形ですが、阿弥陀様という仏様のお姿についてお話させて頂きました。
本来は余りにスケールが大きく、人の想像をはるかに超える御身ですので、アリがゾウの横にいても横にいるのがゾウだと分からないように、私たちが阿弥陀様の真のお姿を捉えきることはほぼ不可能です。
ですが、私たちが心の中に阿弥陀様を見たいと心から思えば、阿弥陀様は必ずその気持ちに応えて下さる仏様ですので、私たちでも想像ができるくらいのサイズにまで変身するお力もお持ちです。そのモデルとなっているのが仏像です。私たちが普段お祀りしている仏像は、本来の阿弥陀様を想像するための手がかりなのです。
数えきれないほどの特徴は描き切れないため、実際の仏像には分かりやすい「三十二相(※3)」と、より微かな「八十種好」という特徴があります。有名なところですと、「どんな人でもお救いするため、指の間の水かきが大きい」などです。
三十二の相について詳しくは備考を参照して頂ければと思いますが、初めに「仏様はなぜイケメン細マッチョではないのか」という問いかけに対するもう一つの答えがそこにあります。
「異性を惹きつける力」というのは自分の子孫を残すための力です。自分の一族郎党を繁栄させることには役立ちますが、「どんな方でも救う」というわけには行きません。
仏様の見た目の特徴は、徳の高さや優れた点を表す部分もありますが、ほとんどが「人を救い、教え導き、喜びをもたらす」ためのものです。
「自分の幸せ」より「他者の救い」を願われる阿弥陀様だからこそ、そのお姿には時代を超えた温かみがあるのかもしれません。
私たち人間よりはるかに大きく、単なる賢さを超えた智慧を持ちながら、小さく弱い一人一人の人間に寄り添い救いたいという慈悲の心をお持ちの阿弥陀様。そのお心の深さを思うと、「イケメンかどうか」という一過性の基準で仏様のお姿を揶揄するのは何ともちっぽけなことのように思えます。

浄土宗では「南無阿弥陀仏」のお念仏が、誰でもできる祈りという点で最も優れている修行とされておりますが、もし機会がありましたら、ご法要の際などに、仏像のお姿を通じ、阿弥陀様のお姿や無限の温かい光、そして慈悲の心に思いを巡らせて頂ければ幸いです。
私たちは各々違う人生を歩んでおりますので、欠けているもの、心から求めるものはそれぞれ少しずつ違います。阿弥陀様の光明が数えきれないほど多いのは、私たち一人ひとりの苦しみや餓えを満たしたいというお心の現れでもあります。どうぞ、阿弥陀様の無量の光のいくつかでも皆様に届きますよう、ご祈念致しております。

合掌

※1
宇宙の大きさを体感できる動画
https://again.lunaclear.com/knowledge/science/t5111/
※2
須弥山とは:古代インドの世界観において、世界の中心にそびえるとされる山。
※3
三十二相:仏様の体の特徴で、人が見てすぐ分かるものと、その意味