鐘の元に集う

本格的な冬が到来し、屋外では指もかじかむ日々となりました。当山でも、庭木の枝落とし、境内の清掃、仏具の手入れや年賀状の手配など、今年一年お世話になった諸々に感謝しつつ年越し支度を進めているところです。

この時期に思い出されるのが、東京タワーのふもとにある浄土宗の大本山・増上寺の大晦日です。増上寺の除夜の鐘は、事前申し込み(毎年12/1より。本年は定員〆済)をすれば一般の方も僧侶とともに撞くことができます。『ゆく年くる年』での中継をご記憶の方もおられるかもしれません。私も友人の誘いで深夜の増上寺にお参りをしたことがございます。とても寒い季節ではありましたが、大本山の清冽な空気に響き渡る荘厳な鐘の音は聴けども聴けども飽きず、お参りの皆様ともに新年を喜び合うことができました。

除夜の鐘を撞く回数は一般的に108回で、108は煩悩の数と言われております。数え方は諸説ありますが、「八百万の神様」と同じように「沢山の」と捉えて頂ければと思います。私自身もこの一年、様々な煩悩に気付かせていただきました。「煩悩」は活動や進歩の原動力になる場合もあり、一概に悪いものとも言い切れませんが、人を傷つけたり惑わせたりする類の「煩悩」は除夜の鐘に振り落としていただきたいものです。

増上寺では大晦日以外でも、毎日朝5時と夕5時に時を知らせる鐘が撞かれておりますので、お近くにお出ましの際はぜひ耳を傾けて頂ければと存じます。

さて、当山にも小さな鐘があり、お手洗いの手前に備え付けられております。ご法要の直前に、法要開始をお知らせするのが役割です。鐘を撞く前に、以下の「鳴鐘偈(めいしょうげ)」という偈文(一節)をお唱えいたしております。

願諸賢聖 同入道場 願諸悪趣 倶時離苦
(がんしょげんじょう どうにゅうどうじょう がんしょあくしゅ くじりく)

「賢聖」は「仏教を学び、仏道を歩む全ての修行者」という意味ですが、これは僧侶や信心深い方だけでなく、ご仏縁あってともに祈る方々も含まれているように思います。
「悪趣」とは、「地獄・餓鬼・畜生」の世界で苦しむ人々、という意味です。浄土宗では阿弥陀様のお迎えにより「離苦」、つまり極楽往生ができますが、仏縁薄く死後に苦しんでいる方もおられます。
「願わくば、諸々の仏道者が、同じく法要の場に入られますよう。
 願わくば、諸々の苦しむ方々が、同時に苦しみの世界を離れ極楽に参られますよう」
というのが「鳴鐘偈」の直訳です。「全ての方が、誰も見捨てられることなく、極楽浄土に往生できるように」という阿弥陀様の教えを表しております。
しかしまた同時に、「さあ、これからご法要が始まります。ともに亡き方々へ心を手向けて祈りましょう」という、「ともに同じ場で祈る尊さ」を表しているようにも思います。
除夜の鐘が多くの方々の気持ちを一所に集めるように、鐘の音には人の心をあらため、一つにまとめる力があるのかもしれませんね。

残り少ない師走ですが、どうぞ皆様くれぐれもご自愛の上、良い新年をお迎えください。

 合掌