如月も後半、門前の梅もほんのりほころぶ頃合いとなりました。大寒波に襲われた昨今の日本列島でしたが、きりりと頬を差す空気の中ふと木々を見上げると、小さい新芽が懸命に芽吹こうとしている様がほほえましく感じられます。
この時節、2月15日にはお釈迦様の命日があり、各所で「涅槃会(ねはんえ)」という御法要が行われています。お釈迦様が入滅(亡くなること)された時には、皆が集まり、ともにお別れを悼みました。その様子が描かれているのが「涅槃図(ねはんず)」と呼ばれる仏教画です。
その一つ、臨済宗妙心寺派・中山寺(三重)に所蔵されている涅槃図が下図です。
※引用元はこちら(http://www.rinnou.net/nehanzu/)
多くの神々や弟子、修行者、信仰深い人々、動物たちが集まっているのがご覧になれるかと思います。その中に、お釈迦様の足をさすりながら涙する老齢の女性修行者がおられます。

この方は、お釈迦様が最後の夏安居(げあんご・集団で修行すること)を修された地に縁ある女性修行者です。足を頂き拝するのは尊い方に対する最高の礼儀とされており、浄土宗の礼拝でもお釈迦様の足を押し戴く作法がございます。四十五年間もの長い間旅をし、各地で教えを広められたお釈迦様に対する深い感謝、労り、そして別れの悲しみによって、お釈迦様亡きあとのおみ足が涙で濡れていたという言い伝えが残っています。
また一方で、この女性がただ一人、悲しむ者の中で喜ぶ者だったという解釈もございます。長らく迷いや苦しみの中で生きてきた末、最後にお釈迦様の教団に入り、教えを授かることができた喜びを表しておられるそうです。
この「長きを経てやっとお釈迦様の教えに出遭えた喜び」は浄土宗でも重んじられており、「開経偈(かいきょうげ)」としてご法要中やお説法の前にお唱えしております。
「開経偈」(※書き下しは文末にあります)
無上甚深微妙法(むじょうじんじんみみょうほう)
百千万劫難遭遇(ひゃくせんまんごうなんそうぐう)
我今見聞得受持(がこんけんもんとくじゅじ)
願解如来真実義(がんげにょらいしんじつぎ)
「お釈迦様の尊い教え(普遍の真理)には、
数えきれない程の長い時間や生まれ変わりを経ても巡り合うことは難しい。
しかし今、その教えを見聞きし、心に受け止めることができた。
願わくば、お釈迦様の教えの真の意義を理解できますように」
というのがこの一節の意味です。
お釈迦様の教えがいくら尊くとも、お釈迦様に出遭うチャンスがなければ直接教えを聞くことはできません。また、虫に生まれていたり、言葉が通じなければ教えの意味はわかりません。お経を見る機会があっても、文字が読めなければそこで諦めるしかありません。また、教えを誤った方向で捉えたり、粗探しをしたりすれば、お釈迦様の心は伝わらないままでしょう。
私自身、仏道に入ったのは20代で、初めは半信半疑でした。思春期に宗教団体が大事件を起こしたことも背景にあると思います。ですが、宗門の諸上人や、檀信徒の方々、人生の先輩方の暖かいお心のおかげで、信仰を持って生きることの暖かさやありがたみを学び続けることができました。また、お経本一つをとってみても、遥か昔から現代の教育環境へ尽力された、過去世代の方々のおかげ様だとしみじみ感じ入ります。
御仏縁の方々に出遭えたことを貴重なことと受け止め、今後も「仏様を通じた人様とのご縁」を大切に日々精進したく存じます。
※「開経偈」書き下し文
無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭い遇うこと難し。我れ今、見聞し受持ことを得たり。願わくば如来の真実義を解したてまつらん



