蝉時雨もさんざめく猛暑の折、皆様いかがお過ごしでしょうか。ついひと月前まで「夏はどこへ行っちゃったんだろう」などと語り合っておりましたが一転、夏らしい夏となりました。お米が育ってくれてホッとする一方で、有縁の方々のご体調が心配になります。私自身も日傘を駆使したものの少々夏負けし、毎月20日の投稿予定に遅刻してしまいました。失礼いたしました。
さて、現代を生きる私たちにとっては毎朝太陽が昇るのは当たり前のことです。傘を持っていくか悩む時や、台風でスケジュールを調整する時以外は空模様を伺う機会は少ないかもしれません。
ですが、古来より今に至るまで、お日様の光とは私たちの口に入るもの全てを育てる存在です。お米や野菜、果物はもちろん、家畜や魚の餌も太陽なくては育ちません。けれども、陽の光が強すぎれば日照りや干ばつ、熱中症を引き起こし、弱すぎれば不作や不漁、うつ病の原因となります。
かくも大きく恐ろしい存在、それが太陽です。浄土宗が生まれた背景にある平安~鎌倉時代は農業が最も大きな役割を担う社会で、天候は死活問題でした。そのため、人々は太陽を「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」とあがめ祭祀を行いました。仏教においては「大日如来(だいにちにょらい)」、宇宙のすべてをお創りになった仏様として礼拝し、護摩を焚き祈祷を重ね、日々の暮らしの安寧を祈ってきました。
そんな背景のもと、浄土宗を開かれた「法然(ほうねん)」上人はご本尊の「阿弥陀仏(あみだぶつ)」様を「月」に例えられました。
月の光は太陽と違い、人の命をおびやかすことはありません。昼間は太陽の強さにかき消され、満ち欠けはしますが、いつも空にあって、柔らかな光で私たちを照らしてくれます。
そんな阿弥陀様の存在を世に広めるため、法然上人は「月かげの歌」という和歌を詠まれました。
「月かげの いたらぬさとは なかれども ながむる人の 心にぞすむ」
「阿弥陀様が『どんな人も見捨てない』と誓って照らす光に、届かない場所はありません。もし、阿弥陀様の存在に気付いて気持ちを向けてくだされば、その方のお心に阿弥陀様の光は必ず届きます」という意味です。
この和歌は鎌倉時代の勅撰和歌集『続千載和歌集』にも選ばれ、爾来800年以上に渡り、「宗歌」として浄土宗門に受け継がれています。洋楽で演奏されたものを以下にご紹介します。
現代の日本と鎌倉時代では、産業構造も家庭の事情も随分違います。グローバル化とインターネットにより世情の変化はどんどん加速し、「できるだけ多くの人とうまくやること」が求められるようになってきました。色々な方にお話を聞かせていただくにつけ、皆様それぞれに事情を抱えながら、しんどいながらも踏ん張って、ご自身や周囲の方のために生きておられるのだな、と感じております。人生は思い通りにならない「四苦八苦」の連続です。強すぎる日光に灼かれ、夜でも日傘を差さねば安心できないこともあれば、日陰で凍え、うずくまってしまうこともありましょう。
そのような方々も含め、すべての方々に光を届けたい、皆様の心の中にある大切なものをお守りしたいと願っておられるのが、阿弥陀様という仏様です。日傘をはずし、目を空に向けていただければ、月はいつもそこにあります。
私自身も阿弥陀様のような仏の境地には程遠く、何かにつけて揺らぐ心を持つ「凡夫(ぼんぶ)」の身です。月そのものになることは無理でも、せめて「水面に映る月」のように、辛い気持ちでうつむいて歩く方々に少しでも阿弥陀様の光やみ教えを伝えられるよう、今後も精進したいと存じます。合掌
石井綾「月」拝


