みなさまこんにちは。副住職の石井綾月です。
住職が体調を崩しましたため、僭越ながら私が本年のご法話をさせて頂く運びとなりました。
色々とお聞き苦しい点もあるかと存じますが、どうぞよろしくお願い致します。
何分実力不足なもので、本日は先人の描かれました絵のお力を借りようと思いまして、当山所蔵の掛け軸の画像をご用意させて頂きました。ご覧になりながら、お読みいただければ幸いです。
さてこの絵ですが、「二河白道」というお題がついております。浄土宗を開かれた法然上人が心の師と仰ぐ中国の善導大師様が書かれた本の中に、「観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)」という浄土宗の根本となる経本の解釈本がございまして、「観経疏(かんぎょうのしょ)」というタイトルなのですが、その中の一説を絵にしたものです。
二つの河に、白い道と書かれております通り、真ん中あたりに、青い河と赤い河がありまして、その間に白い道が描かれております。
上のほうは、蓮の花が浮かんでいたり、たくさん仏様がいらっしゃったりといった光景で、極楽浄土の様子を表しております。
一方、下のほうは、汚い地面に、真っ黒い暗闇、獣やら蛇やら、武器をもった人たち、お坊さんの恰好をした人、身なりのいい人が描いてあります。こちらは、私たちが生きている現世です。住職がよくお話していた四苦八苦、何事も思い通りにならない「苦」ばかりの、私たちの暮らすこの世の中を表しております。
手前の岸は、「こちらの岸」という意味で此岸(しがん)、向こう側の極楽浄土を、「かの岸」という意味で彼岸、と呼んでおりまして、これが本日の「お彼岸」のもととなる言葉です。
この此岸から、彼岸への間の白くて細い道を、よくよくご覧いただきますと、小さい人が合掌しながら歩いているところが見て取れると思います。
この人は、お坊さんでもなんでもない、ごく普通の人間です。
あるときこの人は、悟りを求める心、仏様のようになりたいという心を起こして旅に出るのですが、その旅路は大変厳しいもので、草も生えない荒れ野を一人ぼっちで、獣や盗賊に追われながら、命からがら、ついにこの大きな河の川岸にたどりつきました。
目の前を見ると、確かに白い道は見えるのですが、幅は10センチくらいしかありません。
右手には、怒涛のような水が渦巻く河があり、左手には炎が轟々と燃え盛っていて、いかにも恐ろしげです。
しかし来た道を見れば怖い獣や盗賊が追ってきます。
進んでも、戻っても、ここにとどまっても命がありそうにありません。
どうしよう。しかしこのまま食われるよりは、怖いけれど前に進んだほうがいいのでは、と足を踏み出そうとします。
そんなとき、旅人の心に背中からお釈迦様の声がかけられました。
「大丈夫。心を決めて、この白い道を進みなさい。この道を進んでも死ぬことはない。留まれば、むしろ死んでしまう」
道の向こう側からも阿弥陀様の声がします。
「一心にこちらへおいでなさい。私があなたをお守りします。水にも火にもおぼれてしまうことはありません」
それを聞いた旅人は、よし、と細い道に踏み出します。
右からはざんぶざんぶと水しぶきがかかり、足をとられそうになります。左からは炎が顔をなめて髪の毛が焦げるほどです。
後ろからは自分を追ってきたものたちが声をかけます。「悪いことは言わないから戻ってこい、危ないぞー」
ですが、旅人は二つのお声を信じ、一歩一歩歩みをすすめ、ついに向こう岸の極楽浄土へたどりつき、自分と同じような心を持った善い仲間とめぐり合うことができました。
「二河白道」とはこんなお話なのですが、このお話に出てくる河や登場人物には色々な意味がこめられています。
旅の途中で、後ろから追ってきた獣やヘビ、これは人間の本能です。人間の肉体があるからこそ生まれてくる煩悩、悩みや苦しみを表しています。このまま獣に食い殺されて、自分も獣のように、本能のままに生きることもできなくはありませんが、それは真っ暗な闇の中で、明かりもなしに転げまわっているようなもので、決して良い状態とはいえません。思い通りに振る舞い続けた結果、周囲の人に疎まれて、年を取ってから孤独になるということもないとは言えないでしょう。
そして、右の河の水の流れは、人間の欲をあらわしています。
欲というものは、良い方向に向かえば、学問や技術が進んだり、社会が良くなったりという風に進みますが、たいていそうも都合よくいきません。良く「水」にまつわる例えに出ますのが、「酒に溺れる」「女に溺れる」「賭け事に溺れる」「情に流される」といったもので、大体ろくな結末にならずに人を駄目にしてしまうものが多いですね。
また、欲が満たされない、思い通りにならないと、今度は左の河、これは人が持つ怒り、イライラ、憎しみの気持ちを表しているのですが、これが燃え盛ってきます。
自分勝手な怒りが周りにも自分にも害を成すのはもちろん、たとえ元々が、「家族が幸せになればいい」とか「みんなの役に立てばいい」という、良い意味での欲であっても、それが報われない場合、これだけ頑張っているのになんでみんな分かってくれないんだろう、という気持ちが怒りにつながってしまうこともありえます。
こういった、欲や怒りといった気持ちにさらされているのが人間の心です。
ですが、そんな私たちを、励まし、見守ってくれるのが、こちら側の此岸にいらっしゃるお釈迦さまと、あちら側の彼岸にいらっしゃる阿弥陀様です。
阿弥陀様は、「一心に、素直な子供のような気持ちでこちらへ心を傾けてください、沢山辛いことやままならないことはいくらでもあって、欲や怒りに引きずられることはあっても、最初に抱いた気持ちを忘れないでこちらへ進んでいらっしゃい、私たちが守ります」というお志をお持ちの仏様です。
まっすぐな気持ちを阿弥陀様にお預けできればそれにしくはないのですが、阿弥陀様のお導きのもとに仏の道を歩もうと思っても、何かと妨げがあるのがこの世の常。
後ろからは「危ないぞー」という声がすると申しましたが、これは、「良い人のふりをした誘惑」です。
「悪いことは言わない、あなたのために言ってるんですよ」などと、人の情に訴える形で様々な一見耳触りの良いことを言って来ます。
どうせ人間死んだらモノになるんだから好きなようにしたらいいよ、とか、どうせ世の中奪い合いなのだから、勝ち組になるために負け組は蹴落とせばいいんだよとか、贅沢は楽しいよー、他人のことなんかどうでもいいから思うまま好き放題贅沢すればいいじゃない、とか、ツボを買えば救われますよとか、悪い意味で「ありのままでいいじゃない、何も変わらなくていいじゃない」という声です。
このような声に惑わされることなく、お釈迦様や阿弥陀様の御守りを信じて、一歩一歩進んで行きましょう、
というのが、この二河白道、という絵の教えでございます。
本日はお彼岸ということで、河と岸にちなんだお話をさせていただきました。
私もまだまだ未熟なもので、しょっちゅうずぶ濡れになったり、髪の毛がチリチリに焦げたりする毎日ではございます。何かが起こるたびに自分はなんと至らないのだろうと思うことばかりですが、なんとかこれからも、一歩一歩精進していこうと思っております。
浄土宗の一歩一歩は、お念仏の一声一声でございます。
本日はお彼岸にちなみまして、皆様にもどうかお気持ちをまっすぐ西の極楽浄土へ向けていただいて、最後に十遍のお念仏をご唱和いただければと思います。



