ボーズ・ビー・アンビシャス

聖号十念

日差しが一気に強くなり、夜を迎えても肌の灼ける感覚がなかなか去らない昨今ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

お盆にお参り下さった皆様、ありがとうございました。

本日は、多宗派交流団体、ボーズ・ビー・アンビシャス(BBA)のイベントについて書かせていただきます。
先日、近隣のご住職よりお誘いを頂き、初めてイベントに参加いたしました。

青松寺のBBAの詳細はこちらです。↓
http://www5.ocn.ne.jp/~seishoji/bouzbeframe.html
初めてお参りいたしました曹洞宗のお寺でしたが、広く清廉なお堂の天井画の天女が大変見事でございました。
曇天のお日和でしたが、落ち葉一つなく掃き清められた寺庭、顔が映りそうなほど磨かれた石床、お堂に入るなりふわりと鼻に沁みる木の香り、そして目に入る観音様と天井の天女像。
当山は小さいお寺ではありますが、お参りくださる方が「来て良かった」と思ってくださるお寺を目指しておりますので、
この感動を忘れたくないと思いました。

セッション1は、今までの自分の人生を、暗くしたお堂の中で振り返り、
半生における自分の人間関係の濃淡をグラフに書き起こし、小グループ内でそれについて話し合いました。
自分史などは就職活動で書き起こされた方もいらっしゃるかと思いますが、
「人間関係の濃淡」という切り口で、初対面の方にお話をするというのは稀な経験でした。
私は転校、いじめ(というほど凄惨でもないですが)、受験戦争、中退、病気、専門学校、僧侶養成口座、青年会など、付き合う人が全く変わってしまうきっかけが数多くあったため、濃淡グラフが大変なことになってしまいました。
嫌 だったことも沢山思い出しましたが、これだけ七転八倒した私と今でも親しくしてくれる親友の安定感、色々な形ではあるけれど、折に触れ良くしてくれた親 族、自分の勝手で意図せずとも傷つけてしまった沢山の人たち、僧侶になってから、見返りなく私を育ててくださった沢山の浄土宗の方々を思い、
ありがたい、という言葉以外にたどり着く場所がありませんでした。
他のメンバーにも、親御さんのお仕事で転校を繰り返した方がいらっしゃったり、
人間関係の身の処し方が私と似た方がいらっしゃったり、興味深かったです。

セッション2は、また別の小グループに分かれ、先ほどの人間関係の濃淡グラフを持ち寄り、
「もし自分があと7日の命だとすればこれからの7日間をどう行動するか」をイメージし、発表しました。
私は結婚式を控えた身でしたが、それと同時に副住職でもあり、青年会関連でお役を頂いていて、また主婦でもありますので、始めの3日間は残務処理、次の1 日で身内と友人への感謝を伝え、最後の3日間は、配偶者を突然失う夫の痛みを和らげることに勝手ながら使わせていただきます、と発表しました。
公私の別がついていなくて甚だお恥ずかしい話です。
他メンバーは、やはり家族やお子様、取り残されるペットについて、心配なさる方が多かったです。
僧侶はラディカルなインド仏教ならば、家族への愛も執着として断ち切らねばならない、という教えですが、
「どう頑張っても、そうも行かないでしょう」というのが法然上人のお考えでもあります。
私見ですが、「最初から、自分も他人もどうでもいい」という感覚を「執着がない」として高評価するのも何か違う気がします。

引き続きまして、
「もし自分が何でも願いの叶う魔法のステッキを持っていたら」という前提で順番にアイデアを出し、
そのアイデアを他のメンバーが絶対的に肯定する、という活動と、
メンバー1名に対し、他のメンバー全員が「あなたはこういう人だと思います(美点)」と順繰りに言い、
本人が「はい、気づいてくれてありがとう」と返すという活動をしました。
初対面の方に面と向かって誉められるのは大変照れくさい経験ですが、
成人すると、他人から無償で誉めてもらえるという体験はなかなかなく、むしろ毀損される経験のほうが増えていきます。
「あくまでそういう活動だ」と思っていても、いつも虫歯のように痛む自尊心を、笑いながらでも回復できるなら、
それは良い活動なのではないかと思いました。

一部の宗教団体やブラック企業と呼ばれる企業社員研修の活動の中には、メンバー同士で徹底的に否定し合い、自尊心と自己決定能力を極限まで低めた後に、
教義による救済を演出するという恐ろしい洗脳テクニックを使うものもありますが、
その完全に逆をやっているな、むしろ、自尊心を失った人を癒すNPO法人の活動に似ていると感じました。
(書物で知っただけで、実際にそういった活動に参加したことはありませんので、誤解がありましたら申し訳ありません)

主催の方にヨガの先生がいらっしゃったので、その後ヨガの修練を挟みました。
あちこちで悲鳴もあがりましたが、現代では、目と脳に感覚が集中しがちで、
肉体感覚がおろそかになりがちな中、自分の体を内面から見つめる機会となりました。

セッション3.
ヨガの終盤、自分が何者からも自由であると感じてみる、というパートがありました。
それを踏まえて、
「自分が自由であれば、10年後、30年後の自分はどうなっていたいか、そのために、今日なにをするか」について
また別の小グループに分かれて話し合いました。
「自坊の経営する幼稚園で子供をより良く育てる試みをしたい」「海外で布教の礎を築きたい」
「僧侶全体で断酒活動をしたい」など様々なご意見がありました。
私は、卑近で恐縮ですが、まずは、住職が医療活動に専心していたために疎かになりがちだった
僧侶としての志と、社会人としての職務を全うしたいと考えました。
また、配偶者として、家庭を保ちたいとも考えました。
そしてまた、女性の僧侶として後輩を応援したい、自身も社会問題に取り組みたい、などとも考えました。
(こういった、社会参加欲、も欲に含めてしまうと厳密には断ち切るべき欲になってしまうのですが、
未だに論議の尽きないところです)

企業研修でも良く用いられる手法ですが、未来の自分を具体的にイメージすることにより、
そのイメージを具体化する手段を時系列的に自分の中でステップ形成するという目的なのだなと思いましたが、
私自身が「目指せ器用貧乏ならぬオールラウンダー」なので、他の方の参考になったかは分かりません。
ですが、私には想像もつかない大きい志、思いもつかなかった修行の形を知れて嬉しかったです。

私はもともと、自分と年齢や立場や職業の違う方とお話をするのが好きで、
新たな価値観と出会い、それを尊重し、その良さや強みを頂いてきました。
インターネットのおかげで、昨今はますます色々な分野の方のお話を聞ける機会が増えて嬉しい限りです。
「自分と違う人」は、「自分と完璧にシンクロして同意や肯定をくれる人」より確かに楽ではないけれど、
口当たりは馴染んだものとは違うけれど、今まで知らなかった自分の気持ちいいツボを押してくれるような、
そんな嬉しい新たな発見も確かにあると思うのです、
今回、参加させて頂けて、自分が一回り大きくなれたと実感できました。

また、本来宗旨の違うお坊さんと寺族(僧侶資格はないが、僧侶の家族)が
宗派の差を、一時的に保留して、僧職として自由に意見交換ができる機会もありがたく、
普段お話を聞くこともない他宗派の方の、落語家顔負けの求心力ある法話も楽しく拝聴しました。
ヨガの先生が、チベット仏教のツールである、「チベタンベル」をイベントの合間に挟んで鳴らしておられましたが、
座禅をたしなむ方、気分を変えたい方にも良い、清廉な音を発する仏具でした。良い出会いです。

現代日本はなかなか、キリスト教国やイスラムと違い、宗教的に統一されているとは言い難いですが、
統一されていないからこそ異端もなく、様々な宗派がそれぞれを尊重することもでき、
ゆるゆるとしているからこそ、選択肢の多様性もあるのではないかと思いました。

BBAの活動は年2回ですが、今後も是非参加したく思いました。

この経験が、拙僧の研鑽と、法話の礎になれば幸いです。

合掌