聖号十念
新年が明け、早くも三週間が経とうとしております。難しい状況の中、皆様懸命にお過ごしのことと拝察申し上げます。当山もなるべく密を避け、出勤と在宅をやりくりしつつお勤めしております。

つい先日ですが、早咲きの桜が店頭に並んでおりました。1月中旬から桜が見られることに驚きました。旅行はおろか電車に乗ることもはばかられるこのご時世、せめてご家庭でお花見気分を、という花屋さんのお心遣いでしょうか。まだツボミばかりの枝は、「今は会えなくても、子供たちの受験を応援したい」という方に応えての品かもしれません。受験生の方々も、試験を開催する学校関係者の方々も、安全のために尽力されていると聞き及んでおります。心より感謝申し上げます。
さて、私ども浄土宗でも現在リモートで様々な研修や講義が行われておりますが、講義の前に必ずお唱えする偈文(げもん)を本日はご紹介いたします。
開経偈(かいきょうげ)と呼ばれている祈りの言葉で、
「無上甚深微妙法(むじょうじんじんみみょうほう)百千万劫難遭遇(ひゃくせんまんごうなんそうぐう)我今見聞得受持(がこんけんもんとくじゅじ)願解如来真実義(がんげにょらいしんじつぎ)」
「この上なく深く優れた仏様の教え(普遍の真理)には、数えきれない程長い時間の中でも出遭うことは難しい。しかし今私はここでその教えを受ける機会を得た。どうか仏の教えの真実の意味を理解できますように」という意味です。
この偈文が初めて確認されたのは11世紀ですが、当時「学問」とは選ばれた人にしか開かれておらず、大半の人は日々食べることすら大変な状況でした。どんなに勉強したくとも、紙一枚、筆一本取っても高価で、印刷技術もないので書物は全て手書きの写しです。法制度も充分に機能しておらず、土地争いから自宗派の領地を護るためとはいえ、僧侶が殺生を覚悟して僧兵とならざるを得ませんでした。「勉強したくてもできない」という時代が長く続いた後、僧侶の修行寺院や寺子屋をはじめ、丁稚奉公、私塾、各藩の学校など紆余曲折を経て徐々に日本の教育が発展してきたという経緯があります。
過去に比べればはるかに恵まれた状況の現代ですが、しかしながら現代ならではの悩みも多いように思います。「こんな勉強が何の役に立つのか分からない」、「何を学びたいのか分からない」、「成績だけで比べられて辛い」などなど…。私自身も「無理にやらされる受験勉強がつまらない」、「学歴が高い女は結局モテなくなるのでは」など不満たらたらで、あまり良い学生ではありませんでした。
ですが、僧侶となり年を経るにつれ、「世の中の全ての基礎が学校の勉強であり、形は変わっても勉強は一生続くものだな」としみじみ感じるようになりました。私たちの身の回りのものほとんど全てに数学や理科が関わっています。気持ちを伝えたり、相手を説得するためには国語や英語が武器になるでしょう。歴史や社会で先人の過ちを知れば、世間の荒波をうまく泳ぎ切る可能性が上がります。スポーツや芸術、家庭科は心身の健康に寄与するだけでなく、言葉の壁を超える力も持っています。学校を卒業した後も、仕事や人付き合いを通じて、様々な学びがあります。私自身もご縁を通じて多くを学ばせていただきましたが、「自分が受け取ったものをどのようにより良くお伝えしていくか」は生涯の課題だと思う次第です。
もちろん、お釈迦様の「四苦八苦」の言葉のとおり、この世ではままならぬ理不尽がふいに襲い掛かってくるものです。個人の力ではどうにもならないこと、取り返しのつかないこと、理屈で分かっていても気持ちがついてこないこともあります。また、先人の遺産とはいえ今の世の中は完璧とは言い難いので、「社会がおかしい」と思われることもあるでしょう(氷河期世代の私の20代はずっとそんな感じでした)。
ですがそのような俗世を生きる私たちの力になりたいと思っておられるのが阿弥陀様という仏様です。お念仏を通じ、「どうにもならないこと」は一時阿弥陀様にお預けして、「何とかなりそうなこと」に集中することで、より良い結果がもたらされるのではと存じます。そしてまた、結果ははかばかしくなくても努力の跡は残ります。私も恥や失敗だらけの道のりでしたが、今まで学んできたことや様々な苦労について「無駄ではなかった」と思える機会を何度も頂きました。
何より、皆様がより良い日々を歩んで行かれることが、極楽浄土をはじめ、こちらの世で縁深い方々の願いでもありましょう。
困難の中で勉学を続ける多くの受験生の方々の心に、一輪でも多くのサクラが咲くよう心よりご祈念申し上げます。合掌
如来大慈悲 学業成満 哀愍護念 南無阿弥陀仏


